
心理学・脳科学・行動経済学でハックする仕事術
第1話 事務職編
「意志」ではなく「設計」で仕事を楽にする
書類の作成やデータ入力、電話やメールへの対応、来客の応対、備品の管理、経費の精算。事務職の仕事は多岐にわたり、そのほとんどが誰かの仕事を成り立たせるための仕事です。にもかかわらず事務職は「誰にでもできる仕事」と軽く見られたり、逆に「ミスが許されない仕事」と過度な緊張を強いられたりしがちです。
この二つの誤解の間で多くの事務職の方が「もっと集中力があれば」「もっと注意深ければ」と、自分の性格や意志の弱さを責めています。しかし、心理学や脳科学の知見に照らすと、ミスや先延ばしの多くは意志の問題ではなく、人間の脳の仕様と仕事の設計の問題です。
この記事では心理学、神経心理学、認知神経科学、行動経済学の研究をもとに、事務職の仕事術をハックします。根性論ではなく、脳の仕組みに逆らわない工夫を研究の裏づけとともにお届けします。
序章
事務職の脳は、毎日「細切れ」を強いられている
仕事術を科学する前に
事務職の一日を思い浮かべてください。朝一番にメールを確認し、書類を作り始めたところで電話が鳴ります。電話を終えて作業に戻ろうとすると、同僚から質問を受けます。ようやく戻ったころには、どこまで進めていたのかわからなくなっている。こうした「細切れの一日」は、事務職の方にとってごく普通の光景でしょう。
脳科学の視点から見ると、これは前頭前野に絶え間なく負荷をかけ続ける働き方です。前頭前野とは、額の奥にある計画・判断・注意の制御を担う領域のことです。人間の脳の中でも特に疲れやすく、しかも容量に限りがあります。そこに「ミスをしてはいけない」という緊張が重なるとパフォーマンスはさらに不安定になります。
仕事術の本質は、意志の力を鍛えることではありません。意志の力に頼らなくても回る仕組みをつくることです。人間の脳の限界を前提にして、仕事のやり方のほうを変えていく。それがこの記事の一貫した主張です。
この記事ではミス、中断、先延ばし、判断力と休憩、メール、書類作業、そして評価と人間関係という七つの視点から事務職の仕事術を整理します。なお心理学の研究には、後年の追試で結果が再現されなかったものもあります。そうした研究についてはその旨を正直にお伝えします。
第1章
ミスは「うっかり」ではない
注意とエラーの科学
1 ミスは性格ではなく、脳の仕様である
イギリスの心理学者ジェームズ・リーズンは1990年の著書『ヒューマンエラー』で、人間の失敗を体系的に分類しました。事務作業に特に多いのが「スリップ」と「ラプス」です。スリップとはやろうとしたことと違う行為をしてしまう失敗で、宛名の書き間違いがその典型です。ラプスとはやるべきことを忘れてしまう失敗で、添付ファイルの付け忘れがこれにあたります。
リーズンが強調したのはこれらが怠慢や能力不足ではなく、慣れた作業を自動的にこなしているときにこそ起きやすいという点です。つまり、ベテランほどスリップの危険を抱えています。さらにリーズンは、事故が起きるのは複数の防護の穴がたまたま一直線に並んだときだと説明し、この考え方は「スイスチーズモデル」として広く知られるようになりました。
ミスの原因を個人の注意力に求めているかぎり、同じミスは繰り返されます。穴を一つずつ塞ぐ仕組みを考える。それが対策の出発点です。
2 「自動」の脳と「手動」の脳
ノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマンは2011年の著書『ファスト&スロー』で、思考を二つのモードに整理しました。速くて自動的な「システム1」と、遅くて努力を要する「システム2」です。おおまかに言えばシステム2は前頭前野を中心とした意識的な思考、システム1は経験によって自動化された処理にあたります。
慣れた入力作業は、大脳基底核という習慣的な動作を担う脳の深部を中心に自動化されています。このとき本来はシステム2が監視役として働くはずですが、疲労や中断が重なるとあっさり手を抜いてしまいます。ミスが起きるのは、手動に切り替えるべき場面で自動のままだったからです。
重要な確認の場面では、意図的に自動を止める仕掛けが有効です。声に出す、指でなぞる、確認の順序を変えるといった小さな工夫は、システム2を呼び起こすための合図になります。
3 見ているのに見えていない
不注意盲
クリストファー・チャブリスとダニエル・サイモンズは、1999年に有名な実験を行いました。参加者はバスケットボールのパスの回数を数えるよう求められます。その最中にゴリラの着ぐるみを着た人物が画面を横切ります。結果は驚くべきもので、参加者の約半数がゴリラに気づきませんでした。二人はこの現象を著書『錯覚の科学』で一般向けに紹介しています。
これは「不注意盲」と呼ばれ、注意を向けていない対象は目に入っていても意識に上らないことを示しています。校正をしていて誤字を見落とすのは、あなたの目が悪いからではありません。注意の向け先が別のところにあったからです。
対策は、一度の確認で見る観点を一つに絞ることです。金額だけ、日付だけ、宛名だけというように、確認の目的ごとに通読を分けます。「全部を一度に見よう」とするほど、見落としは増えます。
4 ダブルチェックが機能しない理由
二人で確認すれば安心と考えがちです。しかし、社会心理学者ビブ・ラタネらは1979年の研究で、集団で作業すると一人あたりの努力量が下がる「社会的手抜き」を報告しました。目隠しをした参加者に大声を出したり拍手をしたりしてもらう実験で、人数が増えるほど一人あたりの音量が小さくなりました。
ダブルチェックにも同じ構造があります。作成者は「どうせ確認してもらえる」と気を緩め、確認者は「作成者がすでに見ているはず」と気を緩めます。二人で確認しているつもりが、実際には二人とも半分しか見ていないことが起こりえます。
対策は、確認者に「何を見るか」を明確に割り当てることです。作成者は計算、確認者は宛先と日付というように、見る観点を分担すれば責任の所在がはっきりし、手抜きが起きにくくなります。
5 チェックリストという外部の脳
外科医のアトゥール・ガワンデは、2009年の著書『アナタはなぜチェックリストを使わないのか?』で、チェックリストが専門家のミスを減らす効果を論じました。彼が関わった世界保健機関の手術安全チェックリストは、ハインズらの2009年の研究で検証されています。世界の八つの病院で導入した結果、手術後の死亡率は1.5%から0.8%へ、合併症の発生率は11.0%から7.0%へと下がりました。
事務職の作業は手術ほど命に関わらないとはいえ、構造は同じです。月次処理、契約書の点検、郵送物の発送といった手順のある作業は、チェックリストと相性が抜群です。チェックリストは、記憶を頼りに「思い出す」という負荷をゼロにしてくれます。
作り方のコツは三つあります。項目は10個前後に絞ること、ミスが起きるたびに一項目を追加すること、そして「確認した」ではなく「目で見て、声に出して、チェックを入れる」まで手順に含めることです。チェックリストは自分の記憶力を疑う代わりに、仕組みを信頼するための道具です。
第2章
「中断」という最大の敵
注意残余とワーキングメモリ
1 二十三分という数字
カリフォルニア大学アーバイン校のグロリア・マークらは2008年の研究で、オフィスで働く人々の作業を観察しました。中断された作業に戻るまでに、平均で二十三分ほどかかったと報告されています。この数字には割り込みのあとに別の作業へ移ってしまう時間も含まれています。
さらに興味深いのは、中断された人が時間の損失を取り戻そうとして作業速度を上げる傾向があったことです。ただしその代償として、ストレスや焦り、心理的な負担が増えていました。中断は時間だけでなく心の余裕も奪います。
電話、メール、同僚からの質問と、割り込みが絶えない事務職は、この研究が示す状況の真ん中にいます。集中できないのは、あなたの能力の問題ではありません。集中を許さない環境の問題をまず切り分けて考えることが大切です。
2 注意残余
前の仕事が頭に居座る
ソフィー・ルロイは2009年の研究で「注意残余」という概念を示しました。ある課題から別の課題へ切り替えたとき、前の課題への注意の一部が頭に残り続け、新しい課題の成績を下げる現象です。特に前の課題が未完了のまま中断されたとき、残余は大きくなりました。
電話が終わってメールの作成に戻ったのに、頭のどこかで先ほどの通話内容を考えている。そんな経験はないでしょうか。これが注意残余です。脳は課題を切り替えるたびに、前頭前野を中心としたネットワークで注意の向け先を組み替えています。この組み替えは想像以上にエネルギーを使います。
対策は、切り替えのたびに「区切り」を意識的に作ることです。作業の終わりに「ここまで完了、次はこれ」と一行メモを残すだけで、頭の中の未完了感を小さくできます。
3 頭の中の作業台は、四つ分しかない
心理学者ジョージ・ミラーは1956年の論文で、人間が一度に保持できる情報の数を「7±2」と示しました。この数字は長く「魔法の数」として知られてきましたが、ネルソン・コーワンは2001年の研究で情報をまとまりとして数えれば、実際の容量は4個前後だと論じています。
頭の中で情報を一時的に保持しながら処理する働きを、ワーキングメモリと呼びます。担っているのは前頭前野と頭頂葉のネットワークです。事務職は複数の案件の締切、担当者の名前、確認事項などを同時に頭に置いて働いています。容量が四つ程度だとすれば溢れるのは当然です。
頭の中に置ける情報は思っているよりずっと少ないです。覚えておく努力をやめて、外に書き出す。それが、ワーキングメモリの容量を超えないための基本戦略です。
4 書き出すと、頭が軽くなる
1927年ブルーマ・ツァイガルニクは、人は完了した課題よりも、中断されて未完了のままの課題をよく覚えていることを報告しました。「ツァイガルニク効果」と呼ばれる現象です。ただしこの効果の追試結果は一貫していないため、慎重に扱う必要があります。
より実用的な知見が、エミー・マシカンポとロイ・バウマイスターの2011年の研究です。未完了の目標があるとそれに関する考えが頭に何度も割り込んできて、別の課題の成績を下げます。ところが、その目標について「いつ、どこで、どのように取り組むか」という具体的な計画を書き出すと割り込みは減りました。課題を実際に終わらせなくても、計画を立てるだけで頭の中の未完了感は静まりました。
終業前の五分間で、翌日の最初の三つの作業とその着手手順を書き出してください。それだけで帰宅後の頭の中の「やり残し」が軽くなり、翌朝の立ち上がりも速くなります。
5 再開メモと机の設計
中断から作業に復帰するとき、人間はどう振る舞うのでしょうか。グレッグ・トラフトンらは2003年の研究で、中断の直前に「次に何をするか」を考える時間があると、再開が速くなることを示しました。頭の中に再開の手がかりを置いておけるからです。
これを仕事に応用したのが「再開メモ」です。電話が鳴ったら出る前に付箋に一行、「次は三行目の金額を確認」と書く。たったこれだけで、電話のあとに作業へ戻るまでの時間が短くなります。
環境の工夫も併せて有効です。集中したい時間帯はメールの通知を切る、席の後ろに「集中中」の札を置く、電話対応の当番を決めるなど、割り込みの入り口そのものを減らします。中断をゼロにはできませんが、中断のダメージを小さくすることは十分に可能です。
第3章
先延ばしの正体
「面倒だから後で」を脳から考える
1 先延ばしは怠けではなく、感情の問題である
ピアーズ・スティールは2007年に先延ばしに関する研究を統合したメタ分析を発表しました。先延ばしは課題の不快さ、衝動性の高さ、自信の低さと関連し、課題そのものに価値を感じにくいときほど起きやすいことが示されています。スティールが提案した「時間的動機づけ理論」によれば、動機は期待と価値が大きいほど高まり、衝動性と締切までの遅れが大きいほど下がります。
ファーガス・ピチルとフシア・シロイスは2013年の論考で、先延ばしを「時間管理の失敗」ではなく「感情制御の失敗」として捉え直しました。不快な課題を避けて、今この瞬間の気分を良くしようとする行動だと述べています。脳画像研究でもシュリューターらが2018年に、先延ばしをしやすい人は不安や恐れに関わる扁桃体が大きく、扁桃体と背側前帯状皮質(行動の方針を調整する領域)の連携が弱いことを報告しています。
2 未来の自分は、他人に見えている
経済学者デイヴィッド・レイブソンは1997年の研究で、人は将来の報酬を急な角度で割り引く「双曲割引」という傾向を持つことを整理しました。テッド・オドノヒューとマシュー・ラビンは、1999年の論文「今やるか後でやるか」で、これを「現在バイアス」として先延ばしの説明に応用しています。今日の楽さが明日の大きな損より重く感じられます。
脳の研究もこの傾向を裏づけます。サミュエル・マクルーアらは2004年に、すぐに得られる報酬を選ぶときは腹側線条体を含む辺縁系が強く反応し、先の報酬を考えるときは前頭前野が関わることを示しました。さらにハル・ハーシュフィールドらは、人が未来の自分を他人のように扱う傾向を報告しています。「明日の自分に任せる」とは他人に押しつけるのとよく似た行為です。
3 「もしXならばY」で、着手を自動化する
ペーター・ゴルヴィツァーは、1999年に「実行意図」という方法を提唱しました。「もしXという状況になったら、Yをする」という形で、行動の引き金を先に決めておくやり方です。ゴルヴィツァーとシーランの2006年のメタ分析では94の研究を統合し、目標の達成に対して中程度から大きな効果が確認されました。
事務職なら、「もし朝のメール確認が終わったら、すぐに経費精算の入力画面を開く」「もし昼休みから戻ったら、まず未処理の書類を一件だけ片づける」といった形になります。状況が引き金となって行動が自動的に始まるため、始めるかどうかを迷う必要がなくなります。
先延ばしを減らす最も確かな方法の一つは、意欲が湧くのを待つことではなく、始める「きっかけ」を先に決めておくことです。
4 最初の二分だけ、やってみる
「やり始めると意欲が湧いてくる」現象は、ドイツの精神科医エミール・クレペリンが唱えたとされ、日本では「作業興奮」と呼ばれています。ただし、脳科学の用語として厳密に確立したものではなく、この点は割り引いて受け止める必要があります。
一方、行動から気分を変える考え方には臨床研究の裏づけがあります。ニール・ジェイコブソンらは1996年の研究で、うつ病の治療において活動を増やす行動活性化だけでも、認知療法の全体と同等の改善が得られたことを報告しました。意欲が行動に先立つのではなく、行動が意欲を連れてくる場合があります。
そこで有効なのが「最初の二分だけやる」という決め事です。ファイルを開く、名前を付ける、最初の一行を書く。それだけで始める心理的なハードルは大きく下がります。
5 ナッジで環境に働いてもらう
リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンは2008年の著書『実践 行動経済学』で、選択の自由を残しながら望ましい行動へそっと誘導する仕掛けを「ナッジ」と名づけました。代表例が初期設定の力です。ブリジット・マドリアンとデニス・シーの2001年の研究では、企業年金への自動加入を導入したところ、加入率が約37%から約86%へと跳ね上がりました。
自分の仕事にもナッジは使えます。定型業務はカレンダーに繰り返しの予定として入れる、テンプレートを用意して白紙から始めない、避けたい仕事の資料は目に入る場所へ置く。やる気に頼らず環境のほうに働いてもらうことが、最も持続する工夫です。
第4章
判断力と集中力を守る
一日のエネルギー設計
1 「意志力は消耗する」は本当か
ロイ・バウマイスターらは1998年の研究で、意志力を使うとその後の自制が弱まる「自我消耗」を報告しました。意志力は筋肉のように疲れる、という考え方です。ところが2016年にハガーらが23の研究室で行った大規模追試では、効果はほぼ認められませんでした。意志力が燃料のように尽きるという単純なモデルは現在は支持されにくくなっています。
判断の質が食事休憩の前後で変わるとした、ダンジガーらの2011年の仮釈放審査の研究も有名です。しかし、審理の順序が無作為ではなかった可能性が指摘されており、鵜呑みにはできません。「意志力が尽きた」という説明はいったん疑ってかかるのが安全です。一方退屈や疲労、動機の低下によって判断が雑になることは日常的に確認される現象です。
2 頭が冴える時間帯を知る
睡眠と時刻の研究者ティル・レネベルクは、人には朝型・夜型といった体内時計の個人差「クロノタイプ」があることを大規模な調査で示しました。さらにシンシア・メイとリン・ハッシャーは1998年の研究で、自分に合った時間帯に課題を行うと、不要な情報を抑える働きが高まることを報告しています。これは「シンクロニー効果」と呼ばれます。
実践としては、自分のピークの時間帯を一週間ほど観察して、ミスが許されない作業や、頭を使う作業をそこに集めます。メールの返信や備品の整理といった頭をあまり使わない作業は、集中の落ちる時間帯へ回します。この配置を変えるだけで同じ八時間でも、成果は大きく変わりえます。
3 習慣にすれば判断はいらない
ウェンディ・ウッドらは2002年の日誌研究で、人の日常行動のおよそ四割がその場の意思決定ではなく習慣によって起きていることを報告しました。習慣的な行動は大脳基底核の線条体という領域を中心に、自動的に実行されます。判断を必要としないぶん、前頭前野の負担がほとんどかかりません。
チャールズ・デュヒッグは、2012年の著書『習慣の力』で、習慣を「きっかけ、行動、報酬」の輪として説明しました。出社後の最初の二十分はメール確認、予定の確認、今日の三つの作業の決定というように、順序を固定します。毎日の立ち上がりを習慣にすれば、その日の重要な判断のために頭の余力を残せます。
4 選択肢が多すぎると、人は動けない
シーナ・アイエンガーとマーク・レッパーは、2000年に有名なジャムの実験を行いました。24種類のジャムを並べた売り場よりも6種類の売り場のほうが購入率は高く、約3%に対して約30%でした。「選択肢が多すぎると決められなくなる」という主張の根拠として広く引用されてきました。
ただしベネディクト・シャイベヘンネらが2010年に50件の研究を統合したメタ分析では、平均的な効果はほぼゼロでした。選択肢が複雑で選ぶ基準がはっきりしない状況で、はじめて悪影響が出るようです。事務職に置き換えればファイル名の規則、フォルダの構造、定型文といった「迷ったらこれ」という基準を先に決めておくことが実務的な対策になります。
5 休憩は、疲れる前にとる
レイチェル・カプランとスティーブン・カプランは1989年の著書で「注意回復理論」を提唱し、自然を眺めることで意図的に注意を向け続ける力が回復すると論じました。この考えを試した実験が2015年のケイト・リーらの研究です。参加者に緑の屋根を四十秒間だけ眺めてもらうと、その後の注意課題での誤りが減りました。
参加者は大学生で小規模な実験のため、一般化には慎重さが必要です。それでも窓の外の木を眺める、席を立って遠くを見るといった短い休憩に害はなく、試す価値があります。休憩は疲れてから取るものではありません。疲れが溜まる前に、こまめに小さく取る。それが一日の後半のミスを減らす近道です。
第5章
メールと電話
「伝わらない」「動いてもらえない」を科学する
1 メールでは、意図が思うほど伝わらない
ジャスティン・クルーガーらは2005年の研究で、メールにおける「伝わったつもり」のずれを検証しました。送り手が皮肉や真面目さを文面に込めて送り、受け手が意図を読み取る実験です。送り手は約78%の確率で伝わると予想していましたが、実際に正しく伝わったのは約56%でした。
原因は送り手が自分の意図を知っているせいで、文面を読み手の視点から見られなくなることにあります。表情や声の抑揚がないメールでは、事務的な文面が実際以上に冷たく受け取られやすくなります。相手の気持ちを推測する働きは内側前頭前野や側頭頭頂接合部が担っていますが、材料が少ないと推測は否定的な方向へ傾きがちです。
「お世話になっております」や「ありがとうございます」は飾りではなく、誤読を防ぐための情報です。
2 「なるべく早く」は、期限として機能しない
ダン・アリエリーとクラウス・ヴェルテンブロッホは2002年に、校正作業を使った実験で締切の効果を調べました。締切のないグループより締切のあるグループのほうが成績は良く、自分で決めた締切にも一定の効果がありました。ただし、最も成績が良かったのは外から等間隔に示された締切でした。人は自分の締切を甘く設定しがちです。
依頼をする側に立てば、「なるべく早く」「お手すきの際に」といった曖昧な表現は、相手の脳にとって、期限として認識されません。「金曜の17時までに、承認か修正の指示を返信してください」のように、いつまでに何をどうするかを具体的に書きます。第3章の実行意図と同じく、具体的であるほど相手は動きやすくなります。
3 頼みごとは、好意を生むことがある
エドワード・ジェッカーとデイヴィッド・ランディは1969年の研究で興味深い結果を報告しました。実験後に実験者から「自腹で行った実験なので、謝礼を返してもらえないか」と頼まれた参加者は、頼まれなかった参加者よりもその実験者を好意的に評価しました。
自分は好意があるから助けたのだと行動に合わせて態度を調整する、認知的不協和の働きだと説明されています。この現象はアメリカの政治家の逸話から「フランクリン効果」とも呼ばれます。遠慮して人に頼れずにいる方は、小さな依頼が関係を悪くするとは限らないという点を心に留めておく価値があります。
4 「多くの方がすでに済ませています」の力
ノア・ゴールドスタイン、ロバート・チャルディーニらは2008年に、ホテルでのタオルの再利用を促す実験を行いました。環境保護への協力を求める通常のメッセージでは再利用率は約35%でした。ところが、「この部屋の宿泊客の多くが再利用しています」と伝えるメッセージに変えると約44%まで上がりました。
人は周りがどうしているかを行動の手がかりにします。事務職が締切のリマインドを出すときも、「提出をお願いします」だけで済ませず、「すでに8割の部署が提出済みです」と添えれば、動きが変わる可能性があります。ただし、事実に反する数字を使うと信頼を失います。使えるのは本当のことだけです。
5 電話対応の疲れは、感情労働である
社会学者アーリー・ホックシールドは1983年の著書『管理される心』で、感情そのものを商品として管理する仕事を「感情労働」と名づけました。クレームの電話に笑顔を装って落ち着いた声で応対する。事務職が日常的に担っているこの負荷は軽くありません。
アリシア・グランディは2003年の研究で感情の演技を二つに分けました。表面だけ取り繕う「表層演技」と、相手の立場に立って気持ちそのものを変える「深層演技」です。表層演技は感情の消耗と結びつきやすく、深層演技は相対的に良好な評価と関連していました。
電話のあとに席を立って水を一口飲む、深呼吸を三回するなどの小さな休止を挟みます。相手の怒りはあなた個人ではなく、状況に向けられたものだと切り分ける習慣も助けになります。感情の負荷は気合いでは消えません。小さな休止でこまめに流していく必要があります。
第6章
書類とデータ入力
単調な作業を、正確に、そして楽に
1 脳は「読む」のではなく「予測して補う」
ジェラルド・ライヒャーは1969年の実験で、文字が単独で提示されたときより、単語の中に置かれたときのほうが正確に認識されることを示しました。「単語優位効果」と呼ばれます。脳は文字をひとつずつ読んでいるのではなく、文脈から予測して全体を補っています。
この補完は普段は便利ですが、校正では逆に働きます。自分が書いた文章は脳が「こう書いてあるはずだ」と予測して読むため、誤字が視界に入っても意識に上りません。ミスを見つけられないのは注意力が足りないからではなく、脳の高性能な予測機能のせいです。
対策は予測を外す工夫です。時間を置いてから見直す、印刷して紙で読む、文末から逆順に読むなど、いつもの読み方を崩すと見落としは減ります。
2 指差呼称は、迷信ではなかった
駅員が信号を指差しながら声に出す、指差呼称。日本の鉄道総合技術研究所は1994年に実験を行い、その効果を検証しました。指差しと発声を行った場合の誤りの割合は約0.38%で、行わなかった場合の約2.38%と比べておよそ6分の1でした。
このやり方は指を動かす運動、声を出す発声、自分の声を聞く聴覚を同時に使うことで、意識の水準を高めると考えられています。まさに第1章で述べた、自動運転から手動運転への切り替えの合図です。
事務職なら金額や口座番号のように、間違えると影響の大きい数字を指でなぞりながら小声で読み上げます。周囲の目が気になるときは、ペンの先で一つずつ押さえるだけでも効果が見込めます。
3 退屈すぎても、緊張しすぎても
ロバート・ヤーキーズとジョン・ドッドソンは1908年に、ネズミを使った実験で覚醒の水準と成績の関係が「逆U字」を描くことを示しました。覚醒が低すぎても高すぎても成績は下がり、ほどよい水準で最も高くなります。その後の研究で単純な課題は高めの覚醒が、難しい課題は低めの覚醒が適していることがわかっています。
覚醒には脳幹にある青斑核という部位と、そこから放出されるノルアドレナリンという物質が関わります。単調な入力作業で眠くなるのは覚醒が低すぎるためです。立って作業する、歌詞のない音楽を流す、タイマーで区切るといった工夫で、覚醒の水準をほどよく引き上げます。
4 フロー
難しさと技能の釣り合い
ミハイ・チクセントミハイは1990年の著書『フロー体験 喜びの現象学』で、時間を忘れるほど没頭する状態を「フロー」と名づけました。フローが生まれる条件は課題の難しさと、本人の技能が釣り合っていることです。簡単すぎれば退屈になり、難しすぎれば不安になります。
単調な作業ほど簡単すぎて退屈を生みます。そこで、自分で難しさを足します。「この30件をミスなしで、昨日より5分早く終える」のように、小さな目標を設定します。作業がゲームのように変わり退屈が没頭に変わる可能性があります。
5 小さな進捗が、いちばんのやる気を生む
テレサ・アマビールとスティーブン・クレイマーは2011年の著書『マネジャーの最も大切な仕事』で、238人の働き手が書いた約1万2千件の日誌を分析しました。最良の一日を分けた最大の要因は大きな成果ではなく、意味のある仕事で少しでも前に進んだという実感でした。
進捗を実感すると脳の報酬系が活動し、ドーパミンという物質が放出されます。腹側線条体という領域がその中心です。単調な事務作業は成果が見えにくいために、この報酬を得にくい仕事です。
だからこそ仕事の進みを見える形にします。ToDoの完了に線を引く、終わった件数を一日の終わりに書き出す。進捗を目に見える形にすることは、それだけで立派なやる気の技術です。
第7章
評価と人間関係
「見えない仕事」を抱える人のために
1 ミスは目立ち、正確さは目立たない
ロイ・バウマイスターらは2001年の論文「悪は善より強し」で、否定的な出来事は同じ大きさの肯定的な出来事より、心理的な影響が大きいことを整理しました。ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーの1979年のプロスペクト理論も同じ額なら、得る喜びより失う痛みのほうが、およそ二倍大きく感じられることを示しています。脳では扁桃体が否定的な刺激に敏感に反応します。
事務職の仕事は「ミスがないこと」が標準です。正確に処理しても何も起きないので気づかれませんが、一度ミスをすれば目立ちます。評価が上がりにくく下がりやすい構造になっています。自分の仕事が認められにくいのは、努力が足りないからではありません。構造の問題として冷静に捉える必要があります。
2 記録すれば、成果は見える
ベンジャミン・ハーキンらは2016年に、138件の研究を統合したメタ分析で目標に対する進み具合を記録することが、目標の達成を促すことを示しました。しかも記録を紙などの形で残したり、他の人に報告したりすると効果はさらに大きくなりました。
そこで自分専用の「成果ログ」をつくることをお勧めします。処理した件数、改善した手順、ミスを未然に防いだ事例、感謝の言葉などを週に一度、数行だけ書き留めます。これは上司との面談や評価の場で「見えなかった仕事」を見せる材料になります。ミスは黙っていても目立ちますが、正確さはこちらから見せなければ伝わりません。
3 頼まれごとが集まる構造に気づく
リンダ・バブコックらは2017年の研究で、議事録の作成や会議の調整のような昇進につながりにくい仕事を依頼される割合も、引き受ける割合も、女性のほうが高いことを報告しました。事務職は周囲から見て「頼みやすい立場」にあるため、性別を問わず同じ構造の中に置かれがちです。
対策の一つは、断り方を調整の形にすることです。ロバート・アルベルティとマイケル・エモンズは1970年の著書『自己主張トレーニング』で、相手も自分も尊重する自己表現の技術を体系化しました。「今は請求書の処理があるので難しいです。明日の午後なら対応できます」と断りではなく、代替案を示します。頼まれごとの引き受け方を選ぶことも仕事の設計の一部です。
4 心理的安全性が、ミスの報告を増やす
エイミー・エドモンドソンは1999年に、病院の看護師チームを調べました。すると、意外にも、質の高いチームのほうが報告されるミスの数が多かったという結果でした。ミスが少ないから報告が少ないのではなく、ミスを報告しても責められない雰囲気があるチームほど、ミスが表に出てきたということです。彼女はこの雰囲気を「心理的安全性」と呼び、2018年の著書『恐れのない組織』でその重要性を論じました。
産業の安全の分野ではハーバート・ハインリッヒが、1931年の『産業災害防止論』で一つの重大な事故の背後に29の軽い事故と300のヒヤリハットがあるという法則を示しました。数字の統計的な裏づけには批判がありますが、小さな兆候に目を向ける意義は変わりません。ミスやヒヤリハットを責める材料ではなく、仕組みを直す材料として共有できる職場を少しずつ育てていくことが、質の向上につながります。
5 燃え尽きる前に、心を仕事から離す
クリスティーナ・マスラックは1981年にスーザン・ジャクソンとともに、燃え尽き症候群を三つの要素で測る尺度を発表しました。心身が疲れ果てる情緒的消耗感、相手への関心が薄れる脱人格化、仕事への達成感の低下です。人と接する仕事が多い事務職にも無縁ではありません。
サビーネ・ゾンネンターグとシャーロット・フリッツは2007年の研究で、勤務時間外に仕事のことを考えない「心理的離脱」が、疲労の回復と翌日の活力に関わることを示しました。退勤後もメールを確認したり仕事のことを考え続けたりすると、脳は休めません。
おすすめは退勤前の小さな儀式です。翌日の計画を書き出して机を片づけ、通知を切る。第2章で紹介した書き出しの習慣がここでも役立ちます。休むことは仕事の一部です。回復を設計しない人から順に燃え尽きていきます。
終章
「意志」から「設計」へ
事務職の仕事術、七つの原則
七つの章で見てきた内容を原則として整理します。ミスは個人の注意力ではなく、確認の仕組みで減らします。中断は書き出しと再開メモで被害を小さくします。先延ばしはきっかけを先に決めて、環境に働いてもらいます。判断力は時間帯と習慣で守ります。メールは意図を具体的に書いて誤読を防ぎます。単調な作業には、指差しと目標設定で覚醒を整えます。そして成果を記録し、休む時間を確保します。
これらすべてに共通しているのは、人間の脳の限界を欠点ではなく前提として受け入れているという点です。集中力が続かない、忘れる、先延ばしにする、疲れる。それは、あなたが特別に劣っているからではありません。脳がそういう仕様だからです。
仕事がうまくいかないとき、疑うべきは自分の意志の強さではなく、仕事の設計です。
事務職は組織の土台を支える、極めて高度な認知的仕事です。その仕事を科学の力で少しでも楽にできたなら、書き手としてこれ以上の喜びはありません。
黒澤 琥珀
